昭和50年02月18日 朝の御理解



 御理解 第52節
 「信心する者は驚いてはならぬ、是から先どの様な事が起きて来ても、少しも驚く事はならぬぞ。」

 驚くなと言われても、驚かなければ居れない様な事がある。此処でどの様な事が起きて来ても、驚かんで済む様な信心を、頂いておかねばならぬと言う事。不平不足を言なと言われても、不平不足を只言いたいけれども、辛抱しておると言うのでは、たいした事はない。不平不足を言わんで済むおかげを、受けておかねばならない。そこでその不平不足を言わなければ居られないのが実体である。それを突き止める事が先ず先決である。そこで矢張り話を聞いて、本当の事が解らなければならん。
 解ると本当に不平不足を言う段ではないなーと、むしろお礼を言わなければならない事に、感謝しなければならない事に、不平不足を言ったり、腹を立てたりしておる事ばっかりなのである。だから本当な事が解って居くと言う事である。驚くなと言われても、是が驚かずに居らりょうかと言う様な事が、私共の生涯の中には何回もある。そう言う時に慌てておる自分、矢張りそう言う時に直面した時に、の自分と言うものが、自分の信心の言わば、正体であるとも言える。
 例えば驚くとか、驚かないと言う事でなく、今言う不平とか不足と言った様な事でもです、本当言いやぁここはお礼を申し上ねばならない事に、自分は不平不足を言ったり、腹を立てたりしておる、自分の信心はまぁあだ此の程度だなと、先ずその都度に解らなければいけない。そこから不平不足を言わんで済む自分、驚かんで済む信心の稽古が、段々出来て来るのです。そこで私共は何時の場合でも、はぁ出来ないなあ、自分はこの位の事だなと、これ位の事で泣き事を言っておる自分。
 これ位の事で腹が立っておる自分、これ位の事で驚いておる自分、そこに自分の信心の正体を解らして頂いて、も少しは増しな信心にお引き立てを頂かなければならんと言う事になる。だから何時どんな場合、言わば不意打ちを食う事がある。是は不思議な事です。私は未だ信者時代に善導寺に参っておりますと、丁度その亀口おこしの橋のある所で、あそこにバラス石が積んであった。七つ、八つ位の子供がその石を投げて来たのが、私の頭に当たった。そしてその子供はつるつる逃げて行ったんですよ。
 その時の私の心の中に湧いたものは、済みませんと言う事でしたがね。あの子供は何処の子供かいっちょひっ捕まえて、いっちょ怒って貰わにゃ、と言った様な物ではなくて、済みませんと言うのが一番でした。是はもう本当に普通はもう、亀口おこしの嫁さんだったでしょうか出て来てから、あのうすぐ冷やして下さいと言われたけれども、すぐそのまま教会に行って、教会で冷やさして貰った。
 もうあヽ痛いよと言うものが、先に出て来る様な事ではいけないです。それは自分の心の中に、何時も相済まんと言う心があるんです。だからその突嗟の事ですから、理屈を作る訳にはいかんのですけれども、突嗟に済みませんと言うものが、心の中に叫ばれたと言う事は。例えばこんな事ではおかげを頂かれまいと、真剣に自分の心に取り組んでおる時だからです、ですから幾ら言うても解らん、と言うて叩かれた様な思いが、まあしたと言う事になるのでしょうか。
 その突嗟の場合そんな理屈やらその言葉が、けどもその内容を正して見るとそう言う事になる様です。改まろうと思うておるけれども、改まりきってはいない。こんな事っじゃおかげを頂かれん、こんな事ではおかげが頂かれんと思うなら、何故其処ん所をシャンとしないか、と言われた思いがしたと言うのが、所謂実感ぢゃないかと思う。済みません、もう子供を責めようとか怒ろうとか、そんな気は起こらない。
 もう一つです、あのう私共の信心がこの様な信心で御座いますから、どうぞ私の心の上にお繰り合わせを頂いてです、ね。心が有難いとか、生々としておる時に、例えば不意打ちではなくてです、私の心に言うなら構えが出来けておる時に、お繰り合わせを下さいと言った様な願いがいる様です。これはもう、二十年も前の私の御祈念の言葉の中に、この橋は汚れております、どうぞ汚しません様に、この橋は壊れております、そこからどうぞ落ち込みません様に、この橋には明かりがありません。
 どうぞ光りを与えて下さい、そう言う様な意味の、御祈念内容の時代が御座いました。氏子の世界と神様の世界を取り結ぶ一つの御結界と言うのは、橋の様なもの。神の願いを氏子に聞いて貰い、氏子の願いを神様に聞いて貰い、難儀な世界から、有難い世界に渡らして貰う。言うならば御結界と言う所は、橋の様な役目をするのである。金光大神が、此処に歴然としてお働き下さってあるのだけれども、その歴然とした金光大神の働きを取次者、私が汚しておる。
 だからそれでその橋を渡りよったら、自分までが汚れたと言った様な事がない様に、通る者が気を付けて通ってくれる様に、この橋は破れておる、破れておるはずないけれども、心のそのものが破れておる、そこから落ち込む様な事が御座いません様に、折角人間の世界から、神様の世界に渡ろうと心掛けた者が、途中で落ちて行くと言った様な事があるのです。それは取次者の言うならば、心が破れておるから。
 取次者の心の破れから転落したのだと言う風に私は思うた時代がある。この橋には明かりがない、真っ暗である。どうぞ光りを与えて下さいと言う様なです、そう言う風に自分と言うものが、段々はっきり解って来る。そこにですどうぞ落ち込みません様にとか、汚しません様にとか、光りを与えて下さいとかと言う願いが願われる。何時も其処の所に、言わば注意をしておると言う事である。
 不思議なものですあのう私共そのう、草野の小学校に通いました訳ですけれども、あそこの運動場は、満ん丸るいとてもいい運動場なのですがね、所がです必ず東北の角で転ぶんですよ転ぶ時には、こう走りぐっちょしましょ、もう必ずと言う程その角で皆んな転ぶんです、あそこに何かがあるのだろうか、と思う位です。だから自分が失敗をすると言う事は、大体その人その人に依ってです、ね。お酒で失敗する人は、何時もお酒で失敗する。女ごで失敗する人は何時も女ごで失敗する。ね。
 と言う様にです、賭け事の好きな人は、賭けごとで失敗をしておる。もう自分が失敗をする所は何処だ、と言う事は解っているのです。だからこの辺は転び易い所だと言う事が解っているのですから、そこを通る時にはです、用心する心掛けが要ると言う事です。所謂自分の欠点を知ると言う事です。そう言う私は、心掛けと言うか、精進が日頃されて行くと言う所にです、どっこいと受けられる物があるのです。
 私はあのーどうぞ万事にお繰り合わせを願うと言う事、例えば一つの問題が起きて来る様な場合でもです、こちらが心が生々としてる時ならば、有難く受けられるのですけども、こんな位の事で腹が立っちゃならんのに、迂闊にしておると、腹が立つ時があるでしょうね、迂闊だからなんです。若先生が、あのう眼に竹が刺さった時なんか、私は朝から別に願った訳ではないけれども、やっぱりそう言う願いをしている時ですから、心の中に御結界に座っておって、何か知らんけれども。
 こう上下からつき上げて来る様な、もりもりしたものが湧いて来るんですよ。例えどう言う例えばその様にあわてた、あのうお取次を、先生お願いいたしますうと飛び込んで来る様な、どう言う言うなら、飛び込んで来る様な事があってもです、例えば、どう言う事があっても、貧乏揺るぎだんするだんじゃ御座いません、と言った様な心が湧いて来るんです、不思議に。
 そしたらあのう近所の方がね、いやぢゃない家内でした。あの勝彦をひっかかえてから、御結界の前に連れて来ました。眼の玉がひっくり返って上にこう出てるんですからね、眼の玉にこの竹、竹が刺さったんですよ、投げた竹が眼に刺さった。それを、その小母しゃん達が居ったつが、叱驚りして御主人を呼びに言った。裏の篠原さんと言う方が、引き抜いてやらしゃった。抜く時に眼の玉が出たんです。真っ白うなってこうひっくり返って出とったんです。
 もうその時の事を今思うて見ると、それこそ貧乏揺るぎだにする事ではなかったですがね。だからそう言う心の状態で受けきった時に、おかげになるです、よーし痛まん様にお願いするぞ、と言うてお取次さして頂いて、家内が二階に勝彦を連れて行った時には、もう泣き声がしておりませんでした。ひしって泣いっとたんが。本当にどの様な事が起こっても驚かんで済む、だから結局こちらの心が、迂闊にして居る時にはそれこそひっくり返って、驚ろかんならん、ね、迂闊だからです。
 私がある夏の御用を終わってから、もう浴衣がけでやれやれととあの椛目のお広前のお縁先に一寸出た途端でした。前に丁度いうなら二寸真四角位な「ガマ」が、私の方に向かってこうして坐っておる訳ですよ。もうその時の私のその異様な声と言うたら、もう皆がたまがったんですから、「ヒャーッ」ちゅうちから、そのたまがったんですから、そしてからですね、縦にお広前の方に転がっていっとたですよ。
 もうそりゃもうびっくりする時にはもう本当、どがな事でも出来るですね、本当にびっくりしたのですからね。そしてその声があまりにもその何て言うですか、けたたましい声だったですから、「あ、どうしなさったですか。」ちうてやって来たその「ガマ」がおった、ちゅうので皆んなが大笑いしましたけれども、こっちとしてはもうそれこそ、迂闊なんです。ね。これはあのうまだ椛目の草創の頃でしたが、耳納山をいっちょう越えた向こうの山向うの人が、ある事のお願いに来ました。
幾ら私が話をしても話しましても、只自分の願いごとばっかりでいっちょん「ほけぇ」んごとして聞きませんもん。もうその時分は私は膝つき合わせてお話ししょりました。そしたらそのお話しの中ばにですパッチッと言うて音がしたと思うたら、上から大きな百足が、その人の膝の所に落ちとるとぢゃもん。そしたらその人がですね坐っとりながら、横飛びさっしゃったですよ。(一同笑う)どげな事でも出来ると思うたです。
 それから私がですね、私がこれからお話しをすることはそげなことじゃない、もっとびっくりする様な事を話すのですよ、と言いましたらそれから真剣に話を聞かれる様になりました。本当にはぁびっくりした時にはですね、坐りながら横飛びさっしゃった。だから不意を突かれると、そう言う事ですから、結局不意を突かれん様にと、しとかにゃならんけれども、人間やれやれと言った時は、不意を作っておっておる、それこそなら私はガマが大体きらいです。
 もう本当にもう嫌いと言うよりも嫌いと言うか怖いと言うか、もう虫が好かんと言うのでしょうか。それでも例えば一升枡の様なガマを、そこに居る事が解っとりゃ傍に坐ってジーッと見よるとですね。仲々可愛らしい顔をしとるですよ目元なんか可愛らしいです。そして雅味があってそげん怖いものでもないですけど、不意を突かれるとそうなんです、びっくりする。ですからそう言う時に、なら私共は場合がありますから、そう言う時にびっくりする様な時がない様に、日頃お繰り合わせを願うとかにゃならん。
 この橋は汚れとります。この橋は只今破れとりますまだ修繕が出来とりません、どうぞ此処を通る者は除けて通る様にと言った様なね、ゆとりのある私は信心の願いと言うものが、なされなければならんのと同時にです、なら何時どう言う事が起こってもです、ならそれこそ、貧乏ゆるきどもする事はないと言った様な、もりもりと湧いて来る様な信心内容と言うものも、高めて行かねばならない。すこしも驚く事はならんぞと言われてもです、驚かにゃおられん事がある。
 所謂不平不足を言うな、いや言わんと決めておっても、不平不足を言わにゃおれん事がある。そこで、不平不足の実体と言う物をです、をよくよく解らせて頂いておると、神様の御働きに間違いないと同時にです、言うならばむしろ神愛である、神様が鍛えて下さろうとする御働きである。研かしょうとなさる神様の願い思いである。驚かなければならない様な事が起きて来た時には、私に神様が信心の度胸を作らせて下さろうとする働きなのである。そこの所の私は信心を、まずは頂かして貰わねば。
 そしてそれが段々驚かんで済む様な、言うならば不平不満を言わんで済む様な、いや言わん所か、その事に対してお礼を言う様な心も、段々育って来る様なおかげが頂かれるのです。驚いてはならんぞと言われるから、驚いてはならんと思いながら、驚かにゃ居られん事が起こって来るのですから、驚かんで済む信心を、日頃稽古しとかにゃならんと言う事になります。
   どうぞ。